蔵元 坂井銘醸

坂井家の歴史

十五代目、坂井量之助の歩んだ波乱の路をたどります。

| 第一章 家系と少壮時代 | 第二章 不安な世相と下戸倉宿 | 第三章 幕末の世態と坂井家 | 第四章 佐久間象山と幼き量之助 |

第一章 家系と少壮時代

 戸倉温泉の開祖と仰がれる坂井量之助は安政六年十月十五日(1859年)信濃の国下戸倉村中町 酒造業 坂井要右衛門寛剛の異母弟、父寛三郎光広、母とりの二男として生まれる。
 坂井家は信濃の国屈指の大地主で代々この地で酒造業を営んでおり、持ち高は百六石壱斗六勺五才で近隣の村々にまで及んだ。
 安政六己羊未年(1859)二月 信濃の国埴科郡下戸倉村名主長右衛門より天領中之条御役所 代官木村董平に差出した、現在の住民票にあたる宗門別人別帳による坂井家の人模様が伺える。

    寂蒔村 禅宗永昌寺檀那
  高百六石壱斗六勺五才
    要右衛門 同人伯母志満 同人忰小太郎 同人娘は那
    同人弟寛三郎 寛三郎女房とり   同人忰正太郎
    竹場村より召抱  清吉
    蓮村より召抱   清助
    越後国高田    久左衛門 同所 太助
    中牧村より    孫助
    蓮村より     元作
    新町より     吉太郎 厄介はつ 同かの 同むつ 同なつ 同やい
    〆 拾九人 内男拾一人 女 八人

量之助は生まれた時から使用人を含む大家族の中で育てられたきた。

第二章 不安な世相と下戸倉宿

 量之助の生まれた安政六年は史上最も惨烈なクーデターが行われた、幕府の大老井伊直弼は前年以来、不穏な政局を打開するため反対派を次々に弾圧した、十月ついに数十人を京都、江戸で処断した(安政の大獄)これに憤激した水戸や薩摩の浪士たちは翌万延元年三月三日、降りしきる雪の中、桜田門外で直弼を暗殺した。
 江戸の慌ただしい情報が信濃の山の中へも伝わってくる、江戸から国元へ、国元から江戸の藩邸へ、上り、下りの飛脚や早飛脚がつづいた、北国往還の下戸倉宿問屋庄兵衛の書き残した天保年間の日〆帳には正月、松の内から忙しい走り書の筆の跡にも不安な世相がしのばれる。

    日〆帳

   正月一日 下り加州(前田)御飛脚
上り高田(榊原)飛脚
上り牧野(長岡)御家中
上り加州(前田)早飛脚
  正月二日 上り加州宰領
下り富山飛脚
下り加州(前田)早飛脚
上り本多(飯山)飛脚
  正月三日 上り加州早駕籠
下り堀(須坂)御家中
下り高田飛脚
以下略

第三章 幕末の世態と坂井家

 幕末の頃、下戸倉村における手習い師匠小林平四郎手記の見聞史は天保年間より明治の中期に及ぶ記録で、当時の戸倉の世態人情を知る為の好個の資料である

 (天保七申、八酉年 国中大飢饉米値段百文につき、申の秋五合四勺、酉の春三合八勺、五月には二合五勺…人民道路に餓死する者多し、村々富裕なる者、粥を煮て飢人に施す、当村にては坂井要右衛門、柳沢儀右衛門粥を煮て貧窮人に施す、我等手作田五十刈(一反歩は十アール=四十刈)にて籾一斗八升(十八リットル)之を米として一斗、搗上げ六升のみ、前代未聞の大凶作なり、所々に盗賊横行す云々)

 文中にある坂井・柳沢家は近隣、希に見る富豪で共に酒造を家業としてきた。
 坂井家は下の酒屋として柳沢家は上の酒屋として、近隣からは羨望の的となった、幕政時代この柳沢・坂井両家とも苗字帯刀を許された家柄で柳沢家は明治中期に衰えたが坂井家はその後も幾多の盛衰の波を受けたが現在に至っている。

第四章 佐久間象山と幼き量之助

 信濃の国にとって特に北信濃では欠かせない人物がいる。
 幕末とは旧・新が入り乱れ正常な神経、先進的な行動力を持ち合わせた人物が凶弾された、せつなくも通らなければならなかった時代といえる。
 其の混沌とした時代の中多くの知識人の中にいち早く、西洋を見据えた佐久間象山が存在した。
 象山は現代で言う科学者であり、常に先験的な目を持ち地域に西洋の息吹を与えつづけた。
 象山の親友に若宮村(現千曲市)佐良志奈神社(後醍醐天皇第八王子造営)神職豊城直友がおり、度々の交流の中で象山の近代的な知識を身につけていった。
 寛三郎は直友の仲介で象山を知り、師事し、元来進歩的な考えの中へ砂に水がしみ込むようにその知識を取り込んでいったのである。

「寛三郎の日記」より
二男量之助3才の文久3年9月24日、昨夜来不機嫌であったところ、急に異常に発熱し、今は既に重態に陥った。
平素出入りの漢方医宮本元伯、倉島玄隆、らもついにさじを投げ、もはや死を待つばかりとなった。
最後の手段として旧来の象山先生に診察を乞うしか方法はないと存ぜられる。
駕籠に乳母を伴い、急ぎ先生の元へと向かう
先生は腹部の膨張を見て「これはずいぶん大病である、定めし苦痛ならん」ともうし、浣腸をほどこした。
量之助すばやく顔色良く、快方に向かった。
先生へ礼もそこそこに急ぎ帰宅、家族で迎える中、母とりは帰らぬものと信じていた量之助を胸に抱き感涙。
先生との普段の親交に改めて頭の垂れるおもいを胸にする。

量之助の命の恩人である佐久間象山は、3年後の元治元年7月11日刺客の凶刃に倒れていなければ、量之助も父と同じに師事をしたのではなかろうかと想像される。