蔵元 坂井銘醸

俳人白雄と坂井家八代目坂井鳥奴

加舎白雄資料

 加舎白雄(かやしらお・1738~1791)は与謝蕪村とならび称される江戸中期の俳人、文学史上“天明中興の五傑”に数えられている。
 元文三年(1738)信州上田藩士の次男として江戸深川で生まれ幼名を五郎吉、成人して加舎吉春、競う(きそお)と言った、幼少期、生母、継母を相次いでなくし、十三歳で家出をしたと言われる、二十歳頃には寺院生活を経験、多感な青年時代を送った。俳句をはじめ春来という俳人に学んだが、明和二年(1765)江戸の俳人松露庵烏明(しょうろあんうめい)に師事して白尾坊昨烏(さくう)といった。
 又、烏明の師、白井鳥酔(ちょうすい)にかわいがられて本格的に芭蕉の俳句を学んだ。この頃は芭蕉がなくなって約半世紀、真価が忘れられていた時期であった、そんな中で鳥酔はいちはやく芭蕉再認識を主張、芭蕉の作風を天下に普及させようとした、白雄はこの偉大な師鳥酔の理論を実践にうつし、自らも研さんして一家をなした人である。
 明和四年春、父祖ゆかりの信州に来遊、東北信濃の各地に多くの門人を得た、坂井鳥奴もその一人(おもてむきは鳥酔門)であったのである、鳥奴は本名、坂井要右衛門兼甫(かねすけ1741~1807)といい、白雄より二歳年少であった、近郷きっての豪農でかたわら酒造を業とし戸倉宿の名主も歴任している。
  若い頃から俳諧を好んだが特定の師を持たなかった、明和四年冬、白雄と対面、その仲介で同六年春、鳥酔に入門、従来の篤志という号を改め鳥奴号を与えられている、ところが、鳥酔は鳥奴入門の二・三ヶ月後に他界してしまった、生前両者が対面した事はない、以後鳥奴は名実ともに白雄門下となるのである。
 一方白雄は、明和四・五・六年と信州を遊説、着実に勢力を固め、上田、戸倉、屋代、松代を中心とした周辺各地に多くの門人を獲得した、これらの散在する門人達を結集させて明和六年八月、姨捨・長楽寺の境内に芭蕉の巨碑を建立、句は“おもかげや姨ひとり泣く月の友”記念集に「おもかげ集」を出版した。
 建碑の中心になったのは戸倉と屋代の門人達で鳥奴も大口の出資者であったようだ、「おもかげ集」もこれら門人たちからの要請で白雄が編集、明和七年に完成、配本している、後年、関東から中部地方に三千人から四千人の門人を持つ白雄の俳人としてのスタートは、実にこの地方の門人達の後援によるものであった。
 鳥奴の子孫である現在の坂井銘醸に白雄の資料がたくさん伝わるのもこのような理由からであった。
 江戸の名家として天下に知られてからも白雄は必ず坂井家を訪れ、酒や蕎麦のもてなしにあずかっている、白雄は終生妻帯せず、酒と俳句で生涯を終えるが、酒の秀句もまた多い。多くの門人を持ちながら政治的に動かず、その孤高な生活と繊細で格調高い作品群は今日なお我々を魅了している。
 尚、鳥奴の息子、信敏も可明とと号する白雄門の俳人であった、一族の中には他に可中・九甫など俳人が多い。

〈秀 句〉
   
春  人恋し灯とぼし頃を櫻ちる
きじの声この春はただに聞捨ず
うづみ火やひとり書を読むはるのひま
   
夏  園くらき夜をしずかなる牡丹かな
夏にこもる御僧いくたり松の風
葉生姜や手にとるからに酒の事
   
秋  川面や花火のあとのかじの音
姨捨や月をむかしのかゞみなる
産髪の故郷遠き夜寒かな
   
冬  行く年やひとり噛みしる海苔の味
逆木や地より立たる霜ばしら
かさぬまでみちのく紙衣もらひけり